くつろげる場所ではない。ホッとするわけでも癒されたりするわけでもない。別に自分のテリトリーというわけでもない。けれどもどうしても惹きつけられてしまう、「私の空間」と呼びたいところがある。
解体途中の建造物、特に廃工場の中だ。

少し前に廃墟ブームというものがあった。
そこでは、廃墟も廃屋もごっちゃにして、ある種のノスタルジーや、怖いもの見たさの肝だめし的覗き見感、過去の遺物を発掘するかのような探検家気分といったようなもので語られることがほとんどだったように思う。
そういった意味での廃墟・廃屋への興味というのは、私にはまったくない。

余談だが、廃墟と廃屋とは似て非なるものだと私は思っている。
建造物の大小に関係なく、ただ手付かずで放って置かれただけのものは、単に使われていない建物・廃屋であるけれども、そこでの生活感や人間のかかわりの痕跡がオブジェ的なモノへと昇華されて、さらに環境や自然とのコラボレーションが絶妙に成り立っているものが廃墟だ。雑草や油と埃のかたまりや得体の知れない薬品やシミで彩られている、モニュメンタルな建造物が、廃墟だ。



廃工場、特にその解体途中現場がいいのは、もともと生活の場として設置された空間ではないので、生活としての営みの痕跡がほとんどないことだ。ひたすら武骨に機能的に、しかも人間的ではない無駄にあふれている。目的と用途に特化された構造が、感情の入り込む隙間のない絶対的な荘厳さを纏っている。
それらがその目的である機能を停止させられ、再利用できる機材や部品は取り外されて、素の姿があらわになる。用途を剥ぎ取られた油まみれの鉄骨ががっしりとそそり立っている。むき出しの骨組みが縦横無尽にひたすら合理的に張り巡らされ、意味のなくなった仕切りと役割を見失った金属の塊が、建物や道具としてではなくその存在を静かに誇示している。
それが解体途中ともなると、これから壊されていくのかそれとも組み上げられていくのか、どちらにも向かっていけそうにさえ感じさせられる。きっと古びたまま新たに建ちあがっていく為にひっそりとエネルギーを蓄えているに違いない、そう思わせる独特の生命感を孕んだ質感がある。

ほこりをかぶっているのがいい。油汚れがこびりついているのがいい。途中な感じなのがいい。植物に侵蝕されているのがいい。なにかが変色しているのがいい。錆がいい。永久に乾かないかのような水溜りがあるのがいい。何かが現れ出そうな奥行きの深い薄暗さがいい。音がないのがいい。
そこは決して心安らぐ場所ではない。異臭が漂い、きっと何か体に悪いものを吸い込んでいるに違いない。怪我でもして動けなくなって、ここから出られなくなっても、誰も気付かないかもしれない。もしかしたらここで遭難・・・!?。そんなこともなぜか、いい。

湧き立つ不安と予感と開放感と衝動とにもてあそばれながら、私はそこに立つ。
イタリアの田舎町の教会で初めてステンドグラスを見た、その見事なステンドグラス越しの光に抱かれて立った時の、あの感覚にどこか似ている。

一時期、自分の作品について、廃墟がモチーフだと言っていたことがある。
原初的な力強い構造体を画面の中に存在させたいと格闘していた当時のことだ。鉄錆を主要画材とし使いながら、ドームや大型船の骨組みのような構造をイメージしながら描いていたそのかたちは、後にコラボレーション作品を展開することになったある現代詩の詩人によって、廃墟を連想させる、いや廃墟そのものだ、と指摘され、気付かされ、自分の中で廃墟なのだと認識した。
具体的なイメージのよりどころがあるというのはありがたいもので、その後しばらくは廃墟をキーワードに制作を続けた。自分が創り出したいと思っていたものに、自分の外から名称なりカテゴリーなりを割振られる事には、深層意識での小さな拒絶感を伴いながらも、何か気の休まるような落着く感覚があるものだ。未知なる物を抱える不安に対して、安心感と制度的な認知が得られたような気にさせられる。



やがて、それこそ廃墟をモチーフに映像を撮りつづけている映画作家と、先の私と廃墟を結び付けてくれた詩人とで、コラボレーションワークのシリーズを展開することになる。
それは、私にとってもメンバーである彼らにとっても、最高に刺激的なものであった。そんな中で、「自分のコンセプトは画面に廃墟を新築する行為にある」と言い切っていたこともあるのだが、その後の廃墟ブームの影響もあってか、廃墟という言葉にしっくりとこないものを感じ始めた。というより、最初からあった小さな違和感・拒絶感が表に出始めたのだろう。
もともと廃墟に纏わりつく人間生活の痕跡や歴史的背景などにはほとんど興味がなく、また、最初に自分の作品がそう見られたときの新鮮さも感動もなく、単に説明しやすい便利な言葉として、ニュアンスの違いには眼をつぶって多用しすぎた反省もあった。今から思えば、「解体されつつある廃工場的な無機能構造物に対する憧憬に基いた、日常空間とのズレを表出させる試み」とでも言っておくべきだったか。それもまどろっこしい。わかったようなわからないような。
あそこに立った時のあの感覚。それが一番しっくりくる。



じつは、私にとって廃工場に感じる想いと同質なものを呼び起こすものがある。
それはクラシックカメラ、あるいは機械式の中古・ジャンク(壊れた)カメラである。
メカニカルで機能的で、どこか無理やりだったり大げさだったり見事だったりする機械的な連動、意外に単純で美しいシステム構造、ひたすら性能と生産性を求めた人類の叡智と職人の技の結晶。それを分解・解体しては、時に修理に専念し、時に解体しっ放しで眺めている。
というわけで、廃工場を探すでもなく、出会うでもなく、それでもその空間(と同質なもの)に浸りたいときには、中古カメラ屋に行く。馴染みの店主と話をしながら、1〜2時間ほどあれやこれやを見せてもらいながら、いじる。で、ほぼ必ず何かしら買ってしまう。それがささやかなストレス解消手段にもなっている。こちらは工場と違って思いたったらでかけていけるという手軽さと、自分のものとして手のひらに保有することが出来ていつでも味わえるという利点がある。
お手軽だということは、あまり良いコトではない。そう思いながらも、ストレスの数の壊れたカメラに囲まれながら、小さな「私の空間」に浸っている。

<「嵯峨芸術」2008原稿より>



08/06/16