「最後の夢」
1300x1620mm 油彩、キャンバス


目次 1:テーマ設定のプロセス  「みえるもの」を「みせたい」という欲求
2:表現媒体の選択  タブローとしての表現
3:テーマについて  
 (1):「擬態する(させる)」ことの展開
 (2):「命」を描く
4:表現の模索
5:卒業制作に向けて
6:まとめ

「レポート要旨」  
私が3・4回生と通してテーマとしてきたしてきた「風景に擬態する生き物たち」について、テーマ設定のプロセス、「擬態」の展開、制作を通して見えてきた自分自身が本当に描きたいもの等を述べていく。  当初は風景の中から、私自身が感じ取った人や動物のイメージ(私自身の視点)を第三者に提示した時にどのようなリアクションが返ってくるのか気になったことからが始まりである。また、風景に溶け込むように異質な生き物達が潜む空間に面白みを感じ制作を行ってきた。  しかし、次第になぜ擬態(動物が攻撃や自衛などのために、体の色・形などを周囲の物や動植物に似せること。)させるのかという部分について深く考えるようになった。そこで、かねてより「命」について考えていたことから、マスメディアを介して伝えられる幼児虐待事件について感じている事。失われた幼い精魂を木に擬態させることで、私なりの魂の救済を行いたいと思うようになっていった経緯を述べている。

 
【序論】
 ここでは本論への導入として、私の制作テーマの根底にある幼少期の遊びを通した経験を述べたいと思う。  
山梨県という自然に囲まれた土地に生まれた私は、幼少期より庭石や山の形状といったものや風景などから生き物をイメージして、その空想を相手にして遊んでみたり、話を作ったりしながら遊ぶことが好きだった。 また、私の住む韮崎市神山町という村には、「なきみしょの木」と呼ばれる、切るとまるで人が鳴き声を上げているかのように木の軋む音ともに、切り口から水が湧き出て来る木の話や、日本武尊の王子武田王の墓とされている「王仁塚(ワニ塚)」と呼ばれる桜の木など、木や自然にまつわる伝承が多く残されており、私自身もそれらを聞きながら育ってきた。
 そのため、木や石などの自然物に「他の何かが宿っている」と空想することは、私にとって不自然なものではなかったのである。この経験が、今の私自身の制作や思想形成にまで大きく関わっていると言っても過言ではない。
 以上のことを踏まえて、以下のテーマ設定のプロセスを述べていきたいと思う。

1:テーマ設定のプロセス
 「みえるもの」を「みせたい」という欲求  「空間に潜む生き物たち」と言うテーマで制作を行い始めたのは、3回生の時におこなったインスタレーションからである。 「大学の敷地内を使用する」という制約のもと行われた課題で、校舎の形状から動物のイメージを多く受けた私は「今、自分が感じ取って見えているものを、他者にも見える形で表現したらどんな反応が返って来るだろう。」という好奇心から、このテーマでの制作が始まったのである。
 このインスタレーションでは、動物に見えた建物に対して実際にその動物に見えるよう目や足など欠如しているパーツを付けた上で、それを見た第三者に「何に見えるか?」と問いかけた。すると、自分では「きりん」や「かば」に見えていたものが、「うさぎ」や「かめ」に見えるという感想を受けた。  このことから、自分の視点を作品として他者に問いかけることで、自分自身と他者との「認識のずれ」があることを確認した。また、そこから新たな発想がうまれ、自分自身が見ていた空想の世界が広がったのを感じた。  
 この経験から「空間に潜む生き物たち」を今後の制作テーマとしておこなって行くことを決めたのである。

2:表現媒体の選択  タブローとしての表現
 インスタレーションは、その空間自体を構成し表現するという点で「みえたもの」を「みえる」通りに表現することが容易であった。しかし、あえてタブローで制作を行ったのは、描くことで私自身の視覚を半永久的に持続させることができ、空間の中で本当に見せたいものだけを抽出して表現することが出来るからである。  また、真っ白なキャンバスへ自分自身の世界を形成していくことが、私自身にとっての「表現するということ」の方法として一番妥当であると感じたからである。

3:テーマについて  
(1):「擬態する(させる)」ことの展開
 同テーマで、タブローでの制作を始めた3回生後期から4回生の前期の作品は、直前に行ったインスタレーションの系譜を踏み「みえたもの」を「みえる」通りに描くことを行っていた。この表現方法自体は、自分自身の世界をタブローへ形成していくという上でとても面白いものであった。しかし、私がこの表現の述べる時に用いる「擬態」という言葉に焦点をあて、タブローとして描く意味を考えた時に、ただ見た空間とその中に感じる生き物を重ね合わせただけの表現でいいのだろうか。さらなる表現の展開もあるのではないかと考え始めた。
 その新たな展開というのが、現在行っている「木に自身が感じたり思った事柄を宿らせること」を示した「擬態」の表現である。  「擬態」という言葉の意味をもう一度思い返した時に、「自衛のために周囲の物や風景に似せること」と言う一節がひっかかった。  私が今まで擬態させてきた生き物達は、何のために擬態していたのだろうか?何のために擬態させるのか。「擬態」という言葉へ焦点を当てたことで、擬態させることに対しての意味を改めて考えることになった。  そして、ただ自身の目に見えているものだけではなく、気に留めている事柄や思いなど。それらを目に見えてきた「いきもの」へ投影させることでタブローとして描き出すことの意味が増すのではと考えるようになったからである。
(2):「命」を描く
 「擬態」について考えていた頃、私は「命」についても多く考えていた。考え始めたきっかけは、一昨年祖父が他界したことにあった。  生きている以上死は必ず巡り来るものである。  祖父は、病床に臥せる以前はとても働き者で元気な人であった。しかし、ある日を堺にみるみる衰弱していき、痩せ細った祖父の姿はまるで木のようになってしまった。あんなに元気だった祖父にもやがて命が尽きる時が来ることを、私は肌で感じた。  私はそのことを受け入れたくはなかったが、ただ祖父が生きていてくれているこの時間が何よりも大切で、かけがえのないものであると祖父の死を通じで教えてもらった。
 しかし、私が「生きる」ことや「命」について考えている一方で、世間では「幼児虐待」や「高齢者遺体破棄事件」など、「命」が他者の手によって物のように粗末に扱われてしまった事件が連日報道されていた。  私は、世間で起きていることと、自分自身の考えとの「ずれ」がどうしても堪えられなかった。そこで「擬態」というものに「命」を込めようと考えたのである。

4:表現の模索
 「擬態させる」ということに一つの結論を見出した私は、「おかえり(※1)」という作品を制作し始めた。この作品では「枝を切り落とされた木のコブが、人間の赤ちゃんの顔や体に見えた。」ことから着想を得て、かねてから気に留めていた「幼児虐待で失われた命」をその木に「擬態」させた。  「失われた命」というと、どうしても「死」というネガティブで不気味なイメージを連想させてしまうであろう。しかし、私が描きたかったものは、その子たちの「死」ではなく「報われなかった命(魂)」なのである。  私は、その「報われなかった命(魂)」を絵画というものを介して救済したいと考えた。この救済の方法とは、木に擬態させることによって、無惨に傷つけられた命を保護し天昇させるという意味である。  日本には古代から「樹木信仰(※2)」という信仰習慣があるが、序論でも述べた通り私は幼少期の経験から「木に何かが宿る」ということに対して何の抵抗もなく、むしろ「その報われなかった命(魂)」を保護し、天昇させるには最良の場所であると感じたのである。

5:卒業制作に向けて  
 前述した「おかえり」という作品では、具体的にモチーフとなった事件等を設定しなかった。しかし、卒業制作ではあえてある虐待事件をモチーフにした。  それは、昨年7月に大阪市西区で起こった幼児置き去り虐待事件のことである。幼い子ども2人が、ゴミだらけの部屋で母親に置き去りにされ餓死した事件で、このニュースは世間へ大きな衝撃を与えたとともに、虐待に対して敏感にさせるきっかけにもなった。  私には、彼女達と同じくらいの姪・甥がいるためか、連日報道されるこのニュースのことが気になって仕方がなかった。
 本来なら、親からの無償の愛情をたくさん与えられたはずの子どもたちは最期まで何を信じ、何を見つめてのだろう。そう考え出したら木に擬態した彼女たちのイメージで頭がいっぱいになった。そこで、この事件に対して「擬態させる」という形で様々なアプローチを行っていこうと思い始めた。  そこで生まれたのが「最期の夢」という作品である。この作品では、この事件に対して一番最初に思った「彼女達の目線」というものを描こうとした。猛暑の中、食べるものもなく置き去りにされた彼女達。母親にそんな惨い仕打ちを受けたとしても、彼女達は最期の最後まで、母親を信じて帰りを待っていたに違いないと私は思う。子どもにとっての世界と云うのは親や家族と自分以外は存在しえない。例えどんなに酷いことをされようとも、信じ、縋れるものは親しか居ないのである。  そんな縋れるものを失った、それでもその者を信じた彼女たちの思いや、瞳がいつまでも風化しないよう彼女達を擬態させ、親の勝手な都合で失われた命を、人間の都合で切り倒される切り株になぞらえて表現した。そして、彼女達が最期にみつめたものは現実であったのか。あるいは少しでも幸せな夢をみれたのだろうか。できれば私は、後者であって欲しいと思い「最期の夢」というタイトルをつけたのである。 6:まとめ  絵画として、自分の思いを100%他者に伝えることは不可能である。それは、人それぞれ考えや感じ方に誤差があるからだ。しかし、万人に共通する感覚というものがある。それは、絵画の中に自分自身の生活空間と共通するリアリティーをみつけることだ。  今回の制作を通じ、またこの作品を介して他者からのリアクションを受けて、私の作品には、こういったリアリティーを表現する部分が未だ至らないと感じた。ただ社会現象への批判を描きたいのではない。私が本当に伝えたい「命」や「魂」について、読み取ってもらえるような表現を研究しながら制作していきたいと思う。


(※1)「おかえり」・・・2010年7月に制作した作品。 (※2)「樹木信仰」・・・巨木を神聖視する信仰習慣。樹木の、大地にしっかりと根を張り、天高く幹を伸ばし、枝を広げ、何百年と生きるその姿から生命の根源として信仰されている。また巨木は、天と地を繋ぐものであり、神を降臨させる寄り代であるとされ、神社などではしめ縄を巻かれた神木(しんぼく)と呼ばれる巨木がみられる。

------------------------------------------------------------------------

参考文献
URL: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『木』 http://ja.wikipedia.org/wiki/木、『神木』 http://ja.wikipedia.org/wiki/神木
著書: 『夢−無意識からのメッセージ−』
ジュリア&デリック・パーカー 著/上野安子・ 三逵真知子 翻/マール社/1996年発行

11/05/18