「自分を描く意味」  阿部裕江



卒業制作タイトル:『はじまり』
形式:油彩
サイズ:1800×1200、1800×900、1800×900
素材:パネル、綿布


●序論
ここでは、約2年間取り組んできた「下着と仏画の混成」について、なぜ制作テーマにしてきたか等を、このテーマの始まりとなった「自画像」と合わせながら述べていきたいと思う。
 3回生になる前の春休み課題として出された自画像制作で、下着姿で蓮華の上に座禅を組んで座っている自分を描いた。このときは、自分とは何か、どのような人物であるかを客観的に見つめて考えようという思いから“瞑想している自分”をイメージしていた。そのため、座禅を組み、一心に何かを見つめているような姿にしようと決めていたのである。しかし、それではなぜ下着姿だったのかということだが、ただ単に下着姿の自分を描いてみたかった。というのが率直な理由である。今まで何度か自画像は描いていたが、どれも同じような顔で、普通の姿ばかりだった。今までとは違う、新しい自分を見つけたいという想いから、決して人前に出ることのない下着姿の自分を描いてみたいという考えになった。こんな単純で軽率な考えで制作した自画像だったが、制作段階のわくわく感や周囲の反応には今までにない開放感と充実感を味わうことができた。私が今でも「下着」と「仏画」をモチーフにしている理由の一つは、このただ“楽しい”“面白い”という素直な気持ちが何より心地よかったことと、表現することの悦びを大切に、忘れないようにという想いがあるからである。
 以上が「自画像」を制作した経緯と理由である。しかし、これは自分を描くというよりは表面的な姿だけを描いたものであり、今回卒業制作で私が取り組んだテーマとは少し制作意図が異なっているように思う。このことから、自分とはどのような人物であるのか、また自分を表現することにどんな意味があるのかを以下から述べていきたいと思う。

1:自分とは?
 人間なら誰もが考えたことがあると思う。自分は一体何者なのだろう…と。考えるときりがないが、私が知っている限り自分は、優柔不断の怠け者で、わがままでずる賢い性格と卑怯な考えをいつも持ち合わせている。また反対に能天気で何でも楽観的に考えていたり、周りを楽しませようと妙に気を遣ったりと忙しく自分を変化させている。自分の考えを主張するより、気持ちを押し殺して他者の意見や周りの様子を窺ってから動き出すように努めている。そうすることで無駄な争いやめんどくさい主張もしなくてすむし、何より「いい子」として認めてもらえるので何かと楽なのである。改めて自分を文章化してみると人徳の小ささと弱さがよくわかる。
 当たり前だが人は誰もが他人には知られたくない弱くて醜い部分を持っている。そして、それを繕う為に他人に優しくしたり、気遣ったりして自分を偽って善者のふりをしているのだと思う。もちろん真の善意から他人に接している部分がほとんどだと思うし、そうであって欲しい。けれど、私は弱いので物事に対して疑うことや、うまく回避する術を知らないうちに身に付けてしまっている。それは決して悪いことではなく、自分を守るために、大げさに言うと生きていくためには必要な能力であると思う。自分を守るために、本当の人格を偽って、時には他人を傷つけてまで生きている姿は痛々しくて悲しくて可哀想にも思えてくる。と同時に、自分自身をきちんと認め、どんな性格であるかを見つめることは今後の自分にとっても大切なことだと思うし、表現者としても自分を知ることは避けることのできないものだと考えている。

2:表現することの意味
 小学校低学年の時、祖母に学校で描いた絵を褒めてもらった記憶がある。今思えば、7、8才が描いたぐちゃぐちゃの絵に褒めるところなどなかったはずなのに、そのときは本当にうれしくて舞い上がっていたことを覚えている。それ以来、祖母に褒めて欲しいが為に毎日絵を描いていて、“描けば褒められる”という絶対的な自信のようなものを持っていた。しかし、これが通用したのも中学校までで、高校からは祖母だけではなく、先生や友達、コンクールで認められたいという思いが強くなっていた。このときから、「何のために」という考えが必ず制作する上で付くようになっていて無意識的に自分でも常に考えるようになっていた。
 私にとって表現することとは、阿部裕江という人物の存在を他者に認めてもらいたいが為に行う伝達手段の一つである。自分で自分自身を認めることはできるが、他人に認められることの喜びを一度味わうと自己満足だけでは物足りなさを感じてしまう。何かしらの形で表に出すことで必ず何かしらの反応が返ってくる。思ってもみなかった予想外の言葉や、意図通りの解釈を示してもらえることもあるが、中には、全く正反対の見方で私と作品を見られてしまうこともある。しかし、そのすべての反応が私にとってはありがたいことなのである。祖母に褒められたあの日から、今も私は単純に自分の存在を認めてもらいたくて表現し続けているのだと思う。

3:制作テーマとの関連性
 私の制作テーマでもある「下着と仏画の混成」の始まりについては序論で「自画像」と合わせて述べたが、ここでは今回、卒業制作で制作した「はじまり」について述べたいと思う。
 卒業制作のコンセプトは、今までの自分を見つめ直し、過去とこれからの自分について改めて考える。というものである。高校を卒業してから私の生活は180度変わった。始めての一人暮らしに、新しい学校や友達、慣れない環境に悪戦苦闘しながら私自身、自分の成長を感じることがあり、強い部分や弱い部分を目の当たりにしてきた。4年間多くのことを一人で乗り越えてきて、今でも自分自身理解できないところもあるものの、4年前の私よりも自分のことをきちんとみられるようにはなっていると思う。そこで、今までの自分の姿と、これから目標としていきたい自分の姿を卒業制作のテーマとして取り組もうと決めた。3部作1作品の構成で、中央の座像を挟むように立像を左右に描いている。まず中央の座像について作品の解説をしていきたいと思う。

・千手観音座像
「手をうつ」「八方手をつくす」など、方策のことを「手」ということがある。あらゆる困難から救ってくれる観音にこの「手」を多く付けることで、分かりやすくストレートに表したものが千手観音とされている。千手観音は千手千眼観音ともいい、千の手に一つ一つ眼があり、その眼で人々が苦しんでいるのを見て、すぐに救いの手をさしのべてくれるという意味がある。そのため、観音の中では最高の地位にあり、蓮華王(観音の王)と呼ばれていたこともある。以上のことから、千手観音の特長や役割はとても偉大なものであり、誰もが信仰の対象として絶対的な存在感を抱いていたと思う。そこで、広大な心と絶大な力で人々を救う千手観音の姿を自分に置き換えることで、これから目標としていきたい剛の者に少しでも近づくことができるのではないかと思い制作した。しかし、強さだけが必ずしもよいこととは考えたくない。何度も弱音を吐き、悔しい思いやたくさんの後悔をする中で本当の強さを身につけることができると思う。私は、弱い部分もきちんと認めることで次に進む力を培い、一層大きな人間になれるのだということをこの4年間で知った。強さの象徴である千手観音の後ろには今までの自分の姿が隠れていることを忘れたくない。次に左右の作品について述べたいと思う。
・金剛力士
 金剛力士といえば、憤怒の表情を浮かべて寺の山門の両脇に立ち、にらみつけている印象が強いと思う。仏教での位置づけは四天王と同じように護法神、仏と寺を守るガードマンとされている。この「ガードマン」という存在が今の私の絵には必要だと強く感じた。一言に「ガードマン」といっても、敵やあらゆる危険から身を守ってくれる最強の盾ではなくて、今回の作品にとって私が考える「ガードマン」とは、付かず離れず、そっと近くで見守ってくれるような柔らかい存在である。道理や物事に対して間違った行いをしてしまう前に再確認ができるように、私を監視するガードマンとして置いているのである。また、口を開けている像を「阿形」、閉じているほうを「吽形」といい、阿は物事の出発点、吽は終着点を表わしている。大学4年間最後の集大成となる卒業制作に対する想いと、卒業後の新しい生活と今後の自分へのエールとなるように金剛力士の形を取り入れることに決めた。

4:自分を描く意味
 私は今まで多くの「自分」を描いてきた。それは、自画像としての自分自身はもちろんだが、今まで制作してきたすべての作品に自分が居るように思う。そのときの気持ちや気分で絵は大きく変わるし、何よりつくった本人の雰囲気が必ず現れるものだと分かっているからである。「3:表現することの意味」と重複してしまう部分があるかもしれないが、私は自分を描くことで自分の考えや感覚を自己確認し、安心しようとしているのだと思う。22年間生きてきてもまだ本当の自分自身を把握できていないし、この先、本当の自分を見つけることができるのかさえ分からない。だからこそ、自分をみえる形で表現し、周りの評価や反応を確かめて安心しようとしているのではないかと思う。いつまで自分を描き続けるかは分からないが、その意味は決して無駄なものではなく、必ず意味のあるものであると思いたい。
 今後は制作にあてる時間も制限されてしまい、思うように自分を描けないかもしれない。だからこそ、今まで当たり前のように自分を表現できる場所に居て、刺激的な環境の中で過ごせたことのありがたさを忘れないように、今後もこれまでの自分とこれからの自分を信じていきたい。


10/06/15