「life=world」
2500x1400x1400 mm、原毛(羊)、布、樹脂



卒業制作「life=world」について


序論

これまでの制作期間において、私は油絵具を用いた絵画作品よりも、物質性を重視したインスタレーション作品を多く制作してきた。絵画作品上でも画面上にイリュージョンを描きだす、というよりは絵具の物質性が勝っていたように思う。絵画作品を制作する上での過程というのもジレンマとして関係していたからかもしれない。脳内で作りだしたイメージを平面に描くために図を描き線をひき、絵具を選んで油で溶き筆に含ませキャンバスに載せる。過程を一つ経るたび、想像したイメージは生みだされた生の状態から遠ざかっていくように思えた。時間が空けば空くほどイメージの鮮度が落ちていくのだ。自分からの解離性を感じてしまって、3回生になる頃には絵具を扱うことに対して積極的にはなれなかった。
反面、物質を直接扱うことはイメージの対象を直接扱うことでもあったので、イメージから遠ざかることはない。返って、自分とイメージを強く結びつける行為でもあった。

焼いた板、藁、蓮の実。砂、トウモロコシ、包帯、ナイフ等々、物質を平面に配置し、組み合わせることで既存の物質を単なるモノから作品へと昇華させる。物質は「そこに在る」ことに揺るぎない。存在しているのだから、存在感に欠けることがない。光が物にどう影響し影響され、空間に存在することによって場所の空気がどう変わるか、匂いや質感はどうなっているのか。視覚のみならず五感、時には第六感に訴えてくる物質は私を惹き付けてやまなかった。
私が物質に惹かれた理由の一つとして先に述べた「存在感」を挙げたが、もう一つに物質の持つ「エピソード」を挙げる。
存在する物は無機物然り有機物しかり、皆何らかのエピソードを持っている。物質の持つ特徴から喚起させられるイメージを、何らかの表象に結びつけたエピソード。または存在に至る過程の話、役割といった類だ。ヒトにおいては思い出といってもいい。エピソードは他のエピソードと結び付けられ物語を形成することがある。物質と感覚を繋ぐ役割を果たし、ただ単に物質を存在しているだけの状態に留めない。存在には意味がある。その「意味」だ。4回生になってから、物質の存在よりも、存在の意味を意識して制作を行うようになった。
切掛けとなったのはあるダニのエピソードである。

「ダニが絶滅すると地球上の動植物の約40パーセントが死滅する」
非常に衝撃を受けた話だ。ハウスダストを始め、人間にとって厄介な存在であるダニだが、その多くが腐葉土を成型するバクテリアの役割も担っている。よって、ダニが死滅した場合腐葉土の恩恵を受けられない生き物は死んでしまう。さらに食物連鎖上位の生物もまた死んでしまう。結果としてダニがいなくなっただけで多数の存在を失うこととなる。人間への影響も小さなものではない。
ダニ自体は小さな存在である。しかし役割の意味を個体が知らずしても、その存在は世界に大きな影響を与えているのだ。生き物の存在、その意味を意識すると如何にして生物が他者に影響を与えて、世界を形成しているかに気づかされた。
一見自然物がない都市部でも道路を固めるアスファルトは古代生物の亡骸が元の重油でできている。コンクリートの炭酸カリウムも甲殻生物に由来するものだ。空気中の酸素は植物の光合成により生成されることは誰もが知っていることだ。
生物が酸素を作り始めたことでイオンとして溶けだしていた鉄は縞状鉄鋼床という形で沈殿している。血清は動物の血液から精製され、ペニシリンはクリソゲヌムから発見された。医薬品と生物の関係も深い。そういった化学的な話に留まらず生物がもたらす恩恵は大きい。水質を浄化し、崖崩れを防ぎ、寒暖の差を緩和させ大気をつくりだす。お互いがお互いに干渉し合うことで生物は世界を形成しているのだ。繋がり合って生きている。人間も動植物も同じではないだろうか。「人は一人では生きていけない」とは誰もが知っている言葉だ。使い古されて一見チープにも思える言葉は、繰り返し使われてきただけにそれが事実であることを示す。人間と人間の関係を表す言葉であるが、もはや人間が関係し合うのは人間だけではない。人間も動物的に、生物的に様々な存在と関係を結び、無機物有機物に関わり世界を形成する一部分となっているのだ。
そうした生き物、関係、意味を持った存在の在り方が尊いものに思えた。感銘を受けたのだ。

感性を表す言葉に「センス・オブ・ワンダー」というものがある。生物学者レイチェル・カーソンの著作の表題でもあるから知っている人も多いかもしれない。日本語に訳すると「自然の精妙さに目をみはり、美しさに打たれる感性」となる。私がダニのエピソードから受けた衝撃、感銘はセンス・オブ・ワンダーを刺激された衝撃だ。
この感性を持ってして生き物の在り方や、世界観を形にしたいと考えた。そうして制作テーマ「存在の在り方」に至った。土にも植物にも遠ざかりがちで、生き物の存在を忘れがちな現代。鑑賞者にも今一度生き物と世界、自分自身との繋がりを実感してほしかったからだ。手法として今まで行ってきた、物質を用いた制作を踏まえ、原毛を使った制作を行う。原毛は生物にも物質にもなり得る存在だと私は考えている。無機物に比べ生き物として能動的である分、その存在が持つエピソードも柔軟且つ確固たるものである。卒業制作作品もこの原毛を扱ったものだ。本文ではこれらの原毛作品について論ずる。


原毛作品について

何故原毛なのか

まだなんの処理も施されていない羊毛のことを原毛という。
毛糸を紡ぐことが目的である原毛は通常洗毛を経て使用される。刈ったままの原毛の状態だと獣臭が強く、毛に泥や牧草、木の実や虫の死骸が絡みついたままだからだ。それらの不純物を落とした上で櫛を使い毛並みを整え、糸車にて紡がれる。
紡ぐことが目的である原毛だが、綺麗に洗って整えられた状態は繊維としての役割が強くなる。生き物としての意識より物質性が勝るのだ。原毛の汚れの度合いは羊の個性による所も大きい。羊にも勿論性格の差はある。大人しい個体はさほど汚れていないし、活発な個体であれば多くの草の実などを着けている。
臭いや汚れがあるから生き物としての個性が伺え、「生きていた」状態を生々しく五感に伝えることができる。私が提示したいのは生き物の存在の在り方だ。ただの繊維では訴えかけることはできない。綺麗なだけが生き物では無い。泥臭さを含んで初めて存在する生き物の美しさが成り立つ。だからこそ原毛を使うのだ。

また、羊がしばしば人間に近しい存在とされることが羊毛を使用する最も大きな理由だ。事実、精神的な面でも物理的な意味でも羊と人間との繋がりは深い。羊は集団社会を形成する生き物である。群れ集う姿は狩られる側である草食動物が持つ弱さの証であると同時に、生きていく力の形だ。関係しあって一つの世界を形成している。人間社会もそうである。関係と繋がりの形に共通点を持つのだ。さらに家畜としての羊に注目したい。羊の家畜化が始まったのは古代メソポタミアの時代、紀元前7000年から6000年頃である。日本においては明治期に諸外国から様々な品種が持ち込まれ、1875年(明治8年)に大久保利通によって牧羊場が新設された。これが日本での本格的な羊の飼育の始まりである。家畜としての羊の用途は多岐にわたる。食肉においては内臓や脳まで食用が可能である。繊維として衣類への利用は勿論のこと、羊毛は建物の断熱材、緩衝材に使われる。遊牧民の生活では毛皮そのものが住居にも成る。さらに羊毛は空気を浄化させる力を持つ。シックハウス症候群の原因であるホルムアルデビドを吸収し、放出をせず無害なものに変えることができる。目に見える所でも見えない場所でも人間が羊から受ける恩恵は大きい。衣食住に深く関係している。だからこそ人間に近しいのだ。よって人間と動物、生き物との繋がりを連想させるために羊、原毛を以って制作を行う。

作例、卒業制作に至るまで

最初に制作した原毛作品は木製パネルに丸めた原毛を貼りつけたものだ。F130号の木製パネルを2枚並べた338×162(cm)の空間にメリノ、チェビオット、ロムニー、サウスダウン、サフォーク等、様々な品種と毛色の原毛をランダムに配置する。丸めた羊毛の一つ一つを羊の個体に擬え、画面上に集めて群れと成す。様々な品種と毛色は他の生物、人間の姿にも擬えている。様々な種類の生き物がいても、皆同じ生物である、ということだ。集合した画面は群れでもあるし、相互に関係しあう世界観である。この作品は学校内展示「絵画道場」にて展示を行った。その際に鑑賞者から投げかけられた問題点があった。
フレームと平面の問題である。原毛という立体的な物質を扱っているのに、平面状でその作業を行う必要があるのかということ、矩形のフレームには意味があるのかということだ。私はパネル上で作業することになんの違和感もなかった。羊毛を使う以前の、物質を使ったすべてのインスタレーションでも支持体に木製パネルを使用しており、その延長線上と捉えていたからだ。違和感を持たず、支持体の形状の必要性を意識していなかったのだ。
これを機に必要性のある形、というものを考えるようになった。
表現したいのは「存在の在り方」だ。存在とは生き物との関係によって形成される世界のことだ。自分自身を、鑑賞者を取り巻く世界である。
そこで、「取り巻く世界」を表現するのだから、卒業制作では実際に鑑賞者を包む立体インスタレーションを制作しようと考えた。世界観を表現したいのなら原毛を用いた空間を作ればいい、との助言を受けた結果でもある。四角の中のみ、という矩形は世界観を表現するには限定された空間だった。円、というものは矩形と違い線の終わりがない。原毛を貼りつけた円筒を作り、実際に鑑賞者に中に入ってもらう。さらに円筒の内側と外側に原毛を配することでフレームの意識をなくすのだ。コンセプトは同じだが、形状を変化させることによってテーマ性を深めることができる。人を包むのだからサイズも相応のものとなる。それに伴い支持体も木製パネルから鉄枠、布と大きく変えることとなった。

作業工程

支持体
初めて立体のインスタレーション作品を制作する際、一番気をつけねばならなかったのが支持体の問題だ。今までは平面パネル上で制作していたため、気をつけることといえばフレームや強度、サイズの問題であり、往々にして既製品の木製パネルを使用すればよかった。自分でパネルを作成するにしても、経験があったため比較的安易だったのだ。しかし今回制作する作品の支持体に既製品などない。自ら設計して一から作ることが必要だ。円筒状の作品を制作するために、原毛を貼りつけるための支持体である布、布を支えるための鉄枠を作成する。
布は250×360(cm)程度の大きさが必要なのだが、一枚布で相当するものがなかった。替わりに2枚の布を縫い合わせることで解決した。一枚布でない分縫い合わせた部分の強度に不安があったが、ミシンを使い縫い目、針の送り方を調節することでこれを補う。
重要なのが布を提げるための鉄枠であった。原毛と樹脂を含むと布の重量は相当なものになる。それを支えるために強度のある鉄を用いる。
鉄製L字アングルを使用し、直径140cmの円にするため、まず円周439.6cmの長さに切断する。次にアングルを寸断しないように8cm単位で区切り、高速カッターを使って切れ込みを入れる。切れ込みを入れて隙間を作ることでアングルを曲げることが可能となった。切れ込みを内円に、円状に曲げた後に溶接。溶接作業の際には強力な紫外線が発生し、眼球を焼く恐れがあるために遮光マスクを欠かすことができない。アングルの裏と表両面から溶接することによってさらに強度を高め、仕上げに劣化防止のラッカースプレーを塗布し完成とする。
初めての事ばかりで慣れぬ作業だったが、彫刻科と染色科の助力を得て作成することができた。この場を借りて深く感謝の意を示したい。ありがとうございました。

洗毛、原毛まとめ

さらに今回は実験的に洗毛を行った。洗毛するとどうなるのか、どの程度獣臭が抑えられるかの実験であったが、先に原毛について述べたとおり、獣臭も作品を構成する要素であるために完璧に消すことはしない。糸を紡ぐことが目的ではないため、通常の洗毛作業と工程は一緒であるがスカーディング を行わず、櫛で毛並みを整えることもしない。洗毛すると20パーセントほど体積が減ってしまうので、それを考慮して6キロほど洗毛することにした。
最初に行うのは予洗いだ。洗濯ネットに原毛を入れて50度程の湯に30分から1時間ほど漬け込む。原毛は絡まるとフェルト化する特質を持っているので、かき混ぜずにゆっくり上から押すだけにしておくと泥や脂が溶けだしてくる。時間が経ったら濁った湯を捨て、新しく湯を張る行為を繰り返す。湯の濁りがある程度薄くなった後には洗剤を入れてさらに着けおく。使用する洗剤はウール用のものを使うと収縮率が少なく、余計な匂いがつくことがない。洗剤を混ぜた湯の中で原毛の先端、トップスや汚れがしつこい場所を指で丁寧に押しのけるようにして洗うと非常に綺麗になる。汚れを落とした後は洗濯ネットの上からゆっくりと原毛を押して脱水させ、風通りの良い日陰に広げて干す。下に吸水性の高い新聞紙、石膏などをひいておくと乾燥が早くて良い。
しかし、実際に洗毛してみると大変体力を使う作業であることがわかった。大量の水を持ち運びしたり身を屈める体勢になることが多いからだ。乾燥においても天候に頼る部分が大きく、晴れの日でも二日はかかることや、雪や雨で駄目になってしまうことが少なくなかった。洗毛した原毛は臭いがきつくなく、色も綺麗な白色に近くなるがコンセプトが弱くなってしまい、且つ非効率的な作業になるため6キロでやめることになった。それでも人間と原毛の付き合い方を実際に体験できて良かったと思っている。こうした作業を行って羊は繊維に変わり人間と繋がっているのだ。自分がそれを体験した意味は大きい。理論だけではなく私と羊との精神的な距離がより近しいものになった。
洗わない原毛に対する「生き物」としての意識もより高まったと感じる。

制作をとおして

「存在の在り方」を表現したいと思い制作をしていると、普段見えなかったものが見えてくるようになってきた。何気ない生き物の存在であり、それらの営みである。どこを歩いていても落ち葉が落ちており、それを運ぶ虫が在り、虫を啄ばむ鳥が居た。私がそれらに気づいたのは序論で述べた通りダニが切掛けであり、伝える手段として選んだのは羊だ。羊に対する理解は一般人以上に深まった。生物多様性という概念を得ることができた。さらには他者への興味を深めることができた。思えば、他者との関係が希薄で「無関心の時代」とされる現代に、人のみならず、すべての生き物に目を向けることができるようになった価値は大きい。そんな時代だからこそ制作を行えたのだとも今は言える。制作と通して生き物の存在、世界観と繋がる事が出来たと感じる。行為の面でも価値観の面ででもある。自分の中の領域、世界を広げることができたのだ。
私の作業工程はシンプルなものだ。羊毛を丸め、支持体に貼りつけ、それを組み立てる。単純ではあるが、単純であるだけ他の要素を挟む込むことがない。拙い手法かもしれないが、シンプルであるからこそ強さを持ち、鑑賞者に訴えることができるのではないか。作品の中に入って獣臭に包まれて、生き物に包まれる。生は世界だ。鑑賞者にも生き物が在る世界という視点を提唱できたら、センス・オブ・ワンダーに目覚める切掛けとなってくれたら、制作者としてこの上ない喜びである。

11/05/18