「在ること・現れること」  國吉 文浩



タイトル:『蠢く』 形式:絵画 サイズ():2273×2273×100 
素材:アクリル絵具、アルキド絵具、水可溶性油絵具


レポート概要

 制作テーマ「存在と現象」について考えていく。「存在=有」、「現象=現れ」を意味し、それらは『物理的な世界』と『観念的な世界』の狭間で揺れ動いて常に関係し合っていると考える。私はそのような「存在」と「現象」の二面性に惹かれ、「存在と現象」を根本テーマとして制作してきた。また、「存在と現象」から派生したテーマとして『“大気中を蠢く生と死の狭間の存在”』を卒業制作テーマとする。「大気」を『物理的世界』の要素として扱い、点描で表現していく。「生と死の狭間の存在」を『観念的世界』として扱い、『生』の部分を生々しい実体のある表現とし、『死』の部分を亡霊的な透かした表現とする。このような『物理的要素』と『観念的要素』を組み合わせたものを卒業制作とする。また、卒業制作テーマと根本テーマをより、具体的に考えるため、『世界の根本原理』や『生』と『死』などについて、哲学の視点から考察する。そして、最終的に、卒業制作での自分の表現する「世界観」を具体的にし、根本テーマの「存在と現象」の自分なりの定義をだしていく。


■序論
ここでは、本論の導入として、私の制作テーマである「存在と現象」についてと、何故そのようなテーマにしてきたか等を述べたいと思う。始めに制作テーマを考えるにあたり、「存在」と「現象」を分けて、一個の概念として見ていきたい。
まず、「存在」について。「存在」というのは、何かが有ること。つまり“有”を意味し、一般的に言う「存在」は、現象群の統合によるものであり、現象群が物理的因果関係を持った時に「存在」と呼べるらしい。また、「現象」は、“見えるもの”や“現れ”を意味し、その背後にあるものは関係なく、目の前に現れていて観察が可能な事実のことを言うようである。この2つの概念は一般的にはそのような意味とされているようだが、私は「存在」と「現象」をこのように考える。現象群が物理的因果関係を持たなくても、存在そのものは存在しうるのではないか。
上記で、観察可能な事実のことを一般的には現象と呼ぶと言っているが、これはあくまで、人間の視点から見たことに過ぎない。たとえ人が認識不可能な領域でも、現象そのものは、別次元の何ものかが認識しているのではないか。むしろ、「“真の現象=現象そのもの”」は人間が認識してはいけない領域であり、もしそれを認識してしまうと、人は人としての『生(機能)』を失う。つまり、それは一般的にいう『死』を意味し、その時点で人の役目を終えているということになる。人の死というのは物理的な世界の生から遠ざかり、観念的な世界へ一歩近づく瞬間ではないだろうか。人としては死ぬが、別次元のものとしては生き、存在そのものと現象そのものに少し近づいたと言えるだろう。こういったことから「存在・現象」は、『物理的な世界(生物が認識可能な領域)』のものだけでなく、『観念的な世界(生物が認識不可能・物理的に形を持たない領域)』にもなりうる点があるのではないかと考える。つまり「存在」と「現象」は、物理的世界と観念的世界の狭間で揺れ動き、常にお互いが関係し合わなければならないのだ。別々の概念として捉えることは可能であるが、これらの関係を否定することは不可能なのである。なぜなら、有ることと現れることは別々の概念でありながら、存在そのものはそのようなものとして現れ存在している、そして現象そのものもそのようなものとして存在し、現れているからだ。存在も現象しており、現象も存在しているのだ。そのような考えが、現在の根本テーマ「存在と現象」であり、それを根本テーマと置いた理由としては、存在・現象は、“身近でありながらも身近でない領域が存在する”という点に惹かれたからだと言えるだろう。またそのような、人が認識しづらい世界を自分で表現してみたいと考えたからである。では、次にそれらの考えを作品としてどのように提示すれば良いかが問題となってくる。そこで、上で記したキーワード『生』・『死』・『物理的世界』・『観念的世界』についてもう少し考え、卒業制作コンセプトを組み立てていきたいと思う。以上を踏まえ、本論に移る。


■本論
1. キーワードの考察
 『生』・『死』・『物理的世界』・『観念的世界』と4つのキーワードがでたが、この中で『生』と『物理的世界』はこれまでの制作の考え方にも当て嵌まる点があるように思う。特に3回生の頃のテーマである「生命」や「異次元空間」はそのようなキーワードが大きく関係していたと言えるだろう。何故なら、生物ありきで生命を考えていたからである。つまりそれはどういうことかというと、「自分(人間=生物)」を核として見ていたのだ。自分の生命の存在を考えるということは、主観的な見方ではなく、むしろ自分を客観的に見ることであり、客観視しているということは、物理的な考え方にしかならないのである。「自分という存在=“生物”」を主体として考えてしまうと、それ(人間)は物理的世界の中で生きる存在なので、必然的に「物理的(科学的=客観的)」な考え方となってしまうのだ。また、異次元空間というのも、「次元」や「空間」という概念が関わっている以上、それは客観的・科学的データの範囲内のものであり、物理的なものとして捉えられてしまうのである。つまり私が表現したいことは、「生命」や「異次元空間」といったレベルのものではなく、それを越えたものであり、生命・異次元空間といったもののさらに奥底(背後)にあるものなのだ。それを越えるものとして、私の現在の制作テーマである「存在と現象」がある。そして「存在そのもの=真の存在」、「現象そのもの=真の現象」は、物理的世界と観念的世界の両方の要素を兼ね備えており、その中に空間や生命・生物等が存在しうるのではないかと考える。存在と現象の中にある空間(空間そのもの=真の空間)は「空(くう・から)」と「間(ま・あいだ)」に分けることができ、私はその中に“無”があるのではないかと考えている。「空・無・間」というように、それらが3つ統合して空間が空間そのものとして成り立つのだと思う。また、空間そのものこそ(ここでいう空間は次元で表せられないもののことを言う)が「真の生命」であり、そこからビックバンという現象が発生し、宇宙という物理的生命を構築しているのではないかと考える。そしてまた、それら(真の「存在・現象・生命」)もキーワードの1つである『生』の内にあり、その『生』も世界の内にあるのだと思う。そのようなものが『生(観念的世界の上位のもの)』であり、これまではその下にある『物理的世界』の『生』、「生物・生命」の部分でしか表現していなかった。では、そこにキーワードの『死』を加えるのはどうだろうか。何故かというと『死』というものの中には、観念的要素が含まれていると考えているからだ。具体的にどのような要素かというと、“亡霊的要素”である。“亡霊”とは何故そうなったか客観的に解らないもの(理由がないもしくは不明なもの)が現世に生前の姿で幽かに残り、可視化したものだと言う。こういった“亡霊”の定義を見てみると、亡霊は客観ではなく、主観的なものだと言える。また、亡霊に似た“幽霊”はそこに未練や遺恨が加わるため、理由
があって存在するものとされるので、客観的に捉えられていると言える。亡霊・幽霊、わずかな違いであるが、私の作品にとって“未練”や“遺恨”といった概念は必要ないので、むしろそのような概念は支障を来す恐れがあるため、幽霊的要素ではなく、“亡霊的要素”と言いたい。亡霊は理由が不明確でありながら存在している分、主観性が強く、観念的な世界に近いものとして捉えられるように思う。だが、この“亡霊”も観念的要素だけではないと考える。何故なら“現世”という物理的空間に幽かに現れているからだ。では、亡霊は『物理的世界』のものなのか『観念的世界』のものなのか、どちらなのだということになる。観念的なものが物理的世界に幽かに可視化されるということは、何らかの物理的作用が加わっているのではないかと考えられる。「可視化=物理的」ではないが、物理的世界に現れるということ自体が物理的であり、人間の目に見える・見えないは関係ないのである。つまり物理的世界の中で現れたものは、何らかの物理的作用によって、現れているものだと私は解釈する。そういったことから“亡霊”は結果的に『物理的世界』のものとなっているだけなのだと考える。逆に亡霊が亡霊として『物理的世界』に現れなければ、“亡霊”という概念になりえないと思う。亡霊としての定義があるから、“亡霊”という概念が成り立つのだ。
 ここまで、『生』・『死』と2つのキーワードについて考えてきて、そのどちらにも物理的要素と観念的要素があることに気づかされた。そして『死』というキーワードから派生した“亡霊”について考えてみると、物理的な要素と観念的な要素がお互いに関係し合っているということが分かった。また『生』もそのような関係は、『死』と同様である。これまでの制作で行ってきた『生』は物理的要素と観念的要素の関係を無視したものであり、物理的な範囲でしか考えられていなかった。このようなことから、卒業制作では視野を広げ、「“世界というのは物理的なことだけで成り立っている訳ではない”」という考えを持ち、複数の要素(上記のキーワード『生』・『死』・『物理的世界』・『観念的世界』)を絡めたものを制作する。

2. 私が表現したいこと
機.ーワードからテーマ設定へ
 上記のキーワードを踏まえ、「今私が表現したいこと」とは何だったのかをここで考えていきたい。まず始めに、夏のオープンキャンパス時に展示した作品、『迫る(絵画)』について。合評会で指摘されたことや作品に対する反省点を述べながら、自作の表現を分析していく。そのような流れで「今私が表現したいこと」が何であるのか明確にしていきたいと思う。
 『迫る』について。見た目としては、真ん中辺りに奇妙な形(ウニョウニョとした形)が描かれており、背景が点描で表現されている絵である。また、作品のイメージを簡単
に説明すると、異質な世界のものが私たちのいる現実世界に迫ってくるような感じである。そのような、“迫り来る感覚”と“存在感”を強調するため、“ウニョウニョとしたもの”を光沢ある表現にした。しかし、合評で「手前に描かれている形の光沢が強すぎて、背景とその形がかけ離れすぎてはいないか?」と指摘された。
確かに今考えてみると、光沢をつけすぎた結果、手前に描かれた形と背景との関係がよく分からない状態になってしまっていた。迫り来る感覚や存在感といった点では、当て嵌まっていたのかもしれないが、背景との関わりが疎かになっていたように思う。また、描かれている“モノ”と“背景”が関係し合っていないという点から、背景を点描にする必要があったのかという疑問もでてくる。では、背景と描かれた形をどう関わらせればよいのだろうか。背景を背景としてではなく、背景を空間として扱うのはどうだろう。つまり、モノはモノ・背景は背景ときっぱりと分けるのではなく、背景に用いた点々を“モノ”の上からも描くことで、点々を空間(ここでいう空間は一般的なもの・次元で表されるもののことを言う)として成立させるということである。そのような関係を成立させることで、点描が“モノ”と絡み合い、“点描”の役割ができるのではないかと考えた。ここで「役割」としての点描の必要性は組み立てられたが、点描である「“意味”」とは何なのか、ということも問題となってくる。これまで、なぜ点描でなければならないのかということを曖昧にしながら制作してきたように思う。また、点で描くことをずっと続けていると「点で描くという“行為”」に頼りすぎている自分がいることに気づかされた。「行為=“描写”」にいきすぎると、本来の自分の“表現”を見失ってしまうのではないかと思い始めてきたのだ。しかし一方で、今このタイミングで点描技法を用いることを辞めてしまってよいのだろうか、まだ遣りようがあるのではないか、という気持ちもあった。そこで、点描の「意味」付けが必要となってくるのではないだろうか。点描に意味付けをすることで、“行為”を“表現”に変換することが可能なのではないかと考えたのである。では、点描の「意味」の部分にキーワードの『物理的世界』を繋げるのはどうだろうか。絵具で描かれた点々というのは、妙な“物質感”がある。そして点を描くという“行為の蓄積”は、画面に「強さ」をもたらしてくれる。つまり、“点”というのは1つだけの存在では弱いものだが、増えれば増えるほど物質的な強さを増すのだ。増殖していくといった現象、それは凄く物理的なことである。また、そのような「“物質的な強さ”」をもたらす要素があるところに惹かれ、点で描くことを続けているのだと思う。ここで述べたことは、まだまだ点描を用いた「動機・理由」にすぎない。では、点描で描く必要性、点である「意味」とは?
上で、点には「“物質的な強さ”」をもたらす要素があり、そういった部分に惹かれたと述べたが、このようなことから自分自身で『物理的世界』を組み立てたかったのでは
ないかと捉えられる。それを「組み立てる=形成する」手段として、点描技法は有効な
方法ではないだろうか。また、『物理的世界』の根本原理は人間の「目に見えない“点”」であり、それが集合することによって目に見える『物理的世界』を形成していると考えている。だからこそそれを表現するため、点描を用いる必要性があるのだと考える。そのようなことから、「点描の“意味”」とキーワードの『物理的世界』が関係している。
では、次に『物理的世界』をどう表現するかについて。表現するにあたって点描技法を用いるが、その“表現するもの”とは具体的に一体何であるのかを考えてみたいと思う。『物理的世界』を表現するといっても、扱う範囲が広すぎて見る側の立場からすると何が言いたいのかよく分からないだろう。ここで上記の“目に見えない点が集合することで、目に見える『物理的世界』を形成する”ということを見ていくと、どうだろう。私は、人間の視覚で捉えられる物理的なものよりも、視覚で捉えられないもの或いは、捉えにくいものの方に興味がある。そういったことから物理的世界を構成する一部である実体の掴みづらいものとして、“大気”を「表現」に扱うのはどうだろうか。これまで具体的なモチーフを持つことがあまりなかった。しかし“大気”という実体の掴みづらいものでありながらも、そのような一般的に定義があるもの(具体的なもの・モチーフ)を設定することで点描が点描の空間としてではなく、点描が大気という物質として機能を果たし、点描の「流れや動き」も大気の状態として成り立つのではないかと考える。そのような実際に在るものを絵の中に、「要素」として取り込むことで、自分自身でもそれが“単に点描という描写ではない”と意識することができる。また、「〜である」と言える具体的な要素が絵の中に1つでもあれば、絵に説得力がでてくるのではないかと考えた。このようなことかことから『物理的世界』を“表現するもの”として「“大気”」を扱い、その「“大気の状態(動きや流れ)”」を“表現すること”とする。
 これらを踏まえ、卒業制作では、本論の「1.キーワードの考察」ででた、『死』の“亡霊的要素”(幽かに可視化した状態=「“透かした表現”」)と『生』の要素を組み合わせ、『生』と『死』を「生と死」というように1つの要素とし、そこに『物理的世界』の要素である“大気の状態”を点描で表現し絡めていきたいと思う。補足だがここで言う亡霊的要素とは観念的世界のものとして扱う。
「生と死」の『死』の部分は、透かした表現と決定しているが、『生』の部分がまだ具体的に決められていないので、考えていく必要がある。『生』=「生物・生命(物理的世界のもの)」といったこれまでの考え方で進めてしまうと、“大気”も『物理的世界』のものなので、物理的要素が2つになってしまう。そこで、『物理的世界』:『観念的世界』というように「1:1」の関係にしていきたい。そうするために、「生と死」の『生』の部分も『死』の“亡霊的要素”と同様で『観念的世界』のものとして扱うのはどうだろうか。そうすると、たとえ『生』の部分を生物的に表現したとしても、『物理的世界』
のものにはならない。そのようなことから、『生』の部分を実体のある生々しい表現と
する。また、「生と死」を概念としては『観念的世界』のものとして設定するが、表現方法としては、透けた部分と生々しい実体ある部分とが1つになった“者”(存在者=物理的なもの)として扱う。そうすることで、『物理的世界』と『観念的世界』が「1:1」の関係となる。つまり、このような関係である。
『生と死=“観念的世界のもの”』:『大気の状態=“物理的世界のもの”』
上記のことを全て踏まえた上で、卒業制作では「今私が表現したいこと」として『大気中を蠢く生と死の狭間の存在』をテーマとすることに決めた。

供 崑減澆噺従檗廚鯏学の観点から考察
(1) 世界の根本原理【アルケー】について
 ここで制作テーマに概念としての深みをあたえるため、『“世界の根本原理”』について考えてみたいと思う。『“アルケー”』=「始まり・根源」等を意味するが、そもそも世界の根源・根本原理とは何なのか。私は、世界には『物理的世界』と『観念的世界』2つの要素があると考え、「存在」と「現象」も『“世界”』の内にあると考えてきた。また、「現象」、「存在」どちらが先立って存在しているのかということではなく、そのどちらも『物理的世界』と『観念的世界』の狭間で揺れ動いていると定義した。このように「存在そのもの」と「現象そのもの」は私自身の考えとしては、世界の根本原理はそのどちらでもないと考えた。しかし、現象学的な観点から見ていくと、『“この現実は始まりから終わりまで「現象すること」で貫かれている”』と言う。つまり、世界の全ては『現象すること』から始まると言いたいのだろう。一般的に人間が観察できない・認識できない範囲、特別な装置を使わない限り認識できない領域を「見えない=現象しない」とされがちだが、『“世界の全ては「現象する」”』とされる。人間の認識できない範囲ですら、そのようなもの(“どのようなものか知られていないもの”)として既に「現象」してしまう。また、この世界は「存在」していると言えるが、その「存在」自体も「現象している」とされるのだ。ここで、世界の全ては「現象」によって成り立つと言っているのだから、「存在そのもの」も「現象」の内にあるとされるのである。「存在」が存在と呼べる段階で、そのようなものとして現れているので、それは現象の内にあるのだ。つまり、想定されるものは、全て「現象」であり、「無」であったとしてもそれはそのようなもの(一個の概念)としてなりうるものなので、『現象』なのである。このようなことから、「世界そのもの」も「現象」であると認識され、『“世界の根本原理”』は「現象すること」であると言えるのだ。世界は現象に支配されているのである。
 ここで私の考えを少し述べたいと思う。「存在」もそのようなものとして「現象している」というところまでは私も同じである。しかし、「存在」は「現象」の内にあるといった点では私の考えとは異なる。上でもしつこく述べたかもしれないが「存在」が「現象している」のであれば、「現象」も「存在している」と言えるのではないだろうか。
つまり、同じことを何度も繰り返すようだが、このようなことから「存在」と「現象」は同じ位置にあると考える。どちらが上とかではないのだ。世界の全てが、「現象すること」からというのも間違ってはいないが、世界を「現象」という概念で縛りすぎではないだろうか。確かに概念になりうるもの・想定されるものは、全て「現象」として捉えることが可能だ。私もその考え方は“考え方”としてはどちらかと言えば肯定的だが、作品制作を行うにあたってはこのような考え方をしてしまうのはあまりよくないだろう。なぜなら「現象」という概念にしばられ、それ以上のことを考えられなくなる可能性があるからだ。つまり、世界の根本原理が「現象すること」であるとしてしまうと、「“想定できない範囲のことを想定する”」ということができなくなるのではないかと考える。「想定できない範囲」を「“想定すること”」は作品制作にとって凄く大事なことではないだろうか。このようなことから、「現象すること」を根源としてしまうと、“本来存在しないもの”を描くことすら、否定することになってしまうのだ。そうしないためには“世界の根本原理は「現象すること」である”という考え方をしないことが重要なのだ。そうすることで「想定できないもの(実際にないもの或いは解らないもの)」を自由に表現することができるのだと思う。そこで、「想定できないもの」として、私が現段階で考える『“世界の根本原理”』は、『気ではないが、“気のように流動的でありながらも物理的要素を持たない何ものか”』であるとする。
(2)“生”と“死”について
私は、『“世界の根本原理”』を『“気のように流動的でありながらも物理的要素を持たない何ものか”』である。と、「概念にならない“概念”」として表現してみたが、それは『観念的世界』の「最も“最上級のもの”」或いは、『“観念的世界そのもの”』とも言えるだろう。ここでは、そのような『観念的世界そのもの』から派生する(今回のテーマのメインの部分でもある)『生』と『死』について考えていきたいと思う。『生』と『死』これらを1つの“モノ”として表現していくが、そのような「“形ないもの”」を形にするためには、それがどのようなものなのかを少しは把握しておく必要があるだろう。
まず『生』について。『生』を把握するためには、「現象」についてもう一度考えなければならない。現象学的にいう『世界の根本原理』とは「現象すること」であると述べたが、『生』とはその「現象すること」を示すようである。また、「“現象”」自体は、このように成り立っていると言う。『現象すること=生』その中に「現象するもの」と「現象を受け取るもの」があり、「生」と呼ぶには「現象すること」だけでなく、「現象するもの」と「現象を受け取るもの」を含んだ段階のものを言うらしい。このようなことから、『生』は「現象すること」であるので、『世界の根本原理』とされるのだ。つまり『生』は、世界の根本にある「“運動性・力動性”」を示すのである。だが、私は『生=(現象すること)」を根本原理とするのではなく、『生』とは、根本原理の1つ下にあるものだ
と認識する。そのようなことから『生』は『“気のような何ものか知れないもの”』の内に存在する「現象」であると考える。では、『生』に対して『死』とは…死というのはとても難しいものであり、本を読んでもなかなかそう簡単に理解できるものではない。『生・(生きている)』という状態は『死・(死んでいる)」という状態とあまり変わらないのではないかと考える。「生きている」という 「“状態”」が姿として現れるためには、それが「生きた」という「完了」を経由しなければならず、「“生きた”」という「完了」それはすなわち『死』なのであると言う。生きたという完了(“生きる”ということを「“終えた状態”」)=『“死”』なのであると言い直せるだろう。つまり、『死』とは「生きる」という要素だけで成立するのではなく、「“完了”」という要素がないと『死』になりえないのだ。そういった点から、『死』は『生』の対極ではなく、むしろ『“生”』の中に存在するものと言える。しかし、私は『生』と『死』も「“存在”・“現象”」の関係(対極ではない)と同様で、どちらが上にあるものかと考えるのではなく、“どちらも同じ位置でブレながら存在している”のだと考える。また、それらは同じ位置でありながらも、イコールではないようにと思う。そこには僅かな何らかの違いがあるのではないかと考える。その「僅かな違い」といった点まで考えていくと、収集がつかなくなるのでそのような点はここでは触れないことにする。
以上を踏まえ、『生』と『死』は同じ位置にあるものだと考え、そのどちらも『観念的世界』の「“上位のもの”」として扱うことに決めた。また、同じ位置にあるものとしたことから、そのような意味でもそれらを「一体化」させたものとして表現する。

3. 表現としての「世界観」とは
 ここでは、私の卒業制作テーマである『大気中を蠢く生と死の狭間の存在』をどのような世界観として扱うのかについて考えたいと思う。
 上記で『生』と『死』を『観念的世界』のものとして扱い、それらを「“観念的世界の上位のもの”」として扱うこととした。また、『生』と『死』が同じ位置に存在すると決めたことから、『生』と『死』を「“生と死”」という「1つの要素(存在するもの・形あるもの)」として捉えることにした。そして『生』の要素として「“実体のある・生々しい(表現として生物的な要素)表現”」とし、『死』の要素として「“実体の掴みづらい・透かした(表現としての亡霊的要素)表現”」とすることに決めた。そのような手法用いることで、『“生”と“死”』という観念的なものを物質的な形あるもの(モノとしてのもの・存在するもの)とし、『観念的世界』を視覚化することを試みるものだと言える。また、そこに『物理的世界』の「“大気”」という「具体的なもの(物質的に捉えられるもの)」を絡めることで、『“観念的世界と物理的世界の融合”』を表現しているものだと言えるだろう。また、『物理的要素』と『観念的要素』を組み合わせることで
「複雑化」を試みる。そのような「複雑化」するということは、本論の「1.キーワードの考察」で記した「“世界というのは物理的なことだけで成り立っている訳ではない”」ということに繋がるのだ。つまり、『“世界”』はあらゆるものが存在し、それらが複雑に「絡み合って」成り立っているのである。そのようなことから、「“世界は複雑なものである”」と言うことができるのである。また、そのような「複雑化」の表現として、「“絡み”」という要素を取り入れたいと思う。「“絡み”」として、『観念的な世界の存在(生と死の狭間の存在)』を「ウニョウニョとした表現」とし、さらにその「ウニョウウニョの表現」を1つではなく、複数存在させることでそれらを互いに「絡ませる」ということが可能になる。また、そのような「“絡み”」の最大限の表現として、「“点々”」を用いて『物理的世界』の「“大気”」を描く。こういったことから、この作品において「“絡み”」とは、とても重要なものであり、それらの要素が互いに「絡み合うこと」で、1つの画面として成り立つのだ。また、今回の卒業制作テーマである『大気中を蠢く生と死の狭間の存在』は、大きく分けて「大気」と「蠢くもの」で構成されるのである。つまり、卒業制作は、「大気」という定義のあるもの(安定しているもの)と「蠢くもの」という定義のないもの・抽象的なもの(不安定なもの)との関係で成り立っており、そのような『“安定”と“不安定”の絡み合い』こそ「世界観」なのである。

4. 私の考える「存在と現象」
卒業制作テーマは、『“安定”と“不安定”の絡み合い』が「世界観」として成り立っていると決定したが、私の根本テーマである『存在と現象』も『“安定”と“不安定”』の関係で成り立っているのだ。なぜなら「存在=“在ること”」、「現象=“現れること”」は、人間が「認識できる範囲」と「認識できない範囲」の両方を兼ね備えているからである。つまり、『物理的要素』と『観念的要素』という二面性を持つのである。『物理的要素』=「“モノ(物質・物体)として捉えられるもの”」は、『“安定”』であり、『観念的要素』=「“モノとして捉えられないもの”」は、『“不安定”』として成り立つのだ。
このようなことから「存在」と「現象」の結論としては、
「モノとしての“存在・現象”」=「“安定”」
「モノになりえない“存在・現象”」=「“不安定”」
となる。『在ることと現れることは、「安定」と「不安定」の両方を兼ね備えたもの』であり、「安定=物理的世界」、「不安定=観念的世界」となるのだ。これらの関係を持つもの、それが「存在」と「現象」であると考える。


■ 結論
自身の制作について考えるのは容易なことではなかった。これまでの私の作品では、
曖昧でわかりづらいものが多かった。そのようなことから、「自分が何を表現したかったのか」ということ自体も曖昧にしすぎていたように思う。曖昧なものを描いているからといって、考え自体を曖昧にしすぎるのはよくないのではないかと思い、本論で、これまでの制作から現在の制作までキーワードをだしながら考えてきた。その結果として、卒業制作テーマである『“大気中を蠢く生と死の狭間の存在”』があり、自分自身がやりたかったこと、表現したかったこととは、これまでの制作の「総合的なこと」であったのである。つまり、複数の要素を組み合わせながらも、1つの画面として成立するもの、「“複数の要素が絡み合うもの”」を作りたかったのである。そのような『“曖昧なものの具体化(物質的なものと観念的なもの)』”こそが「存在と現象」であり、「“安定”と“不安定”」なのである。また、そのような曖昧なものを具体化することで、見た人に考えてもらえるようなものをこれからも作っていきたいと思う。


■参考文献
URL:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『存在』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8
『現象』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1
『空(仏教)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29
『亡霊』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A1%E9%9C%8A
『幽霊』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E9%9C%8A
『アルケー』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%BC
(検索:1.12)

書籍:
斉藤慶典『知ること、黙すること、遣り過ごすこと 存在と愛の哲学』、(株式会社講談社、2009年)




10/06/15